どうもパルテンです。
やってしまった。もみちゃん(紅葉盆栽)の葉がほぼほぼ全滅しておった。
いや、紅葉は落葉樹なので葉が落ちるのは正常だと思うのですが、夜中に霰っぽい音で目を覚まして、もみちゃん大丈夫かな? まぁ大丈夫かってな感じでまた眠りについてしまったのです。
葉が落ちるのが正常だとしても、自身の怠惰な行動によって紅葉を散らしたようなものでして……、そう考えると罪悪感に苛まれてしまいます……。
というかもみちゃんは元気なのでしょうか……とても不安ですが取り敢えず今日も1日元気に頑張りたいと思います。
はてさて、そんな天候なので、今日は7時を過ぎていてもほんのり薄暗いですね。
天照大神様が天岩戸に隠れた世界というのはこういう感じなのでしょうかね。ちょっと寂しい感じがあります。
おっと、そんなことはどうでもいいですね。今日のお題は「感謝」について書こうと思います。
最近「六方拝」を日常に取り入れているのですが、これをやり出してから心変わりがあったのです。
六方拝というのは東西南北にそれぞれ感謝をする礼拝方法であるのですが、その際に南側で、嫌な人物に感謝をします。
まあ、嫌いな人間に感謝など「したくない」というのが一般的な心情だと思いますが、それでもそういう決め事なので一応自分も感謝していたのです。
「心を成長させて頂きありがとうございます」
「壁を与えてくださりありがとうございます」
とか、最初は本音にあまりなっていないことを適当こいて感謝しておりました。
ただ、これを続けていくうちになんかだ心が楽になっていったのですよ。
先日は自分が流されてやすい単純な生き物であるからそうなのだろうと、書いたのですが、これは本当にそうなのでしょうか。
この「嫌い」に感謝する。と言う行為は人間本来の思考として正しいからそうなってきているのではないかとも思ったり思わなかったり、ラジバンダリ……。
嫌いな人間に感謝する。という行為は仏教らしく、因果応報の道理にも通じずる何かがありそうだなと考え始めたりもしております。
因果応報は、身に降りかかった幸不幸は自身が蒔いた種が原因であるということですから、ほぼほぼ他責の念というものがありません。
幸せでないと思うなら、それは自身が蒔いた種に原因があるという考えですからね。
これはかなり厳しい考えであるのですが、どうしてかしっくりと腑に落ちるのですよ。
正直、責任を転嫁している状態よりも、自身の過ちを悔いて反省するほうが楽です。
これは、転嫁に終着点はありませんが、自責の念は反省という終着点があるからだと思います。他責しているとその迷宮から抜け出すのはほぼ不可能なのでしょう。
そして、この「嫌いな人間に感謝する」という行為は、他責の念を消すのに一役かっている。またはその練習のような気がしてなりません。
「嫌っている自分に落ち度ある」つまりは蒔いている種が何かおかしいという、一般とは逆の思考になっており、これが他責の念を消す練習になっていそうだなと。
この考え方が正しいのかどうなのかは人によりそうですが、自分は合ってました。
でっ
つまり、何が言いたいかというとですね。
取り合えず感謝しときゃなんとななる!
という考えが最強なのではいないでしょうか? ということですよ!
もう、ことあるごとに心の中で「ありがとうございます」と念仏のごとく唱えておれば何事も良きに計らってくれるのではないでしょうか!?
え? 誰が計らうのかって?
そんなの知りません!
知りませんが、計らってくれるのです! 知らんけど!
……
………。
なんか落ちが書けなくて意味わからんことを書き始めてきたので、今日はここらへんで失礼しようと思います。てへ!
もし、現状、心に違和感がある人は、一旦その事柄に感謝してみると道が開けるかもしれません。
ということで、今日は失礼します。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
なんか最後の方が超適当になりましたが、これはいつものことです。ご了承ください。